(JPN) 香港の「始まりの門」:専門家も知らない屯門の歴史を巡る5つの物語
盃に乗った僧侶の伝説から始まり、帝国の南門、氏族の砦、革命の秘密基地、そして抗日の最前線へ。屯門の5つの物語は、この地が歴史を通じて常に何らかの「門」であったことを教えてくれます。それは精神世界への門であり、国家防衛の門、一族存続の門、そして自由を求める革命の門でした。
観光の歴史に関する魅力的な物語に注意深く耳を傾けてください
超高層ビルの地平線を越えて
香港と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、ヴィクトリア・ハーバーの摩天楼、金融センターの喧騒、そしてショッピングの楽園といった現代的な光景でしょう。しかし、この都市の真の起源は、意外な場所にひっそりと隠されています。それは、香港新界西部に位置する「屯門(Tuen Mun)」。現代では新興住宅地として知られるこの場所は、かつて「臺門(Taimun)」と呼ばれ、千年以上にわたり帝国の玄関口としての役割を担ってきた、香港の「始まりの門」でした。本稿では、香港の歴史観を根底から覆す、屯門に秘められた5つの驚くべき物語を紐解いていきます。香港という物語のプロローグは、この忘れられた「臺門」から始まるのです。
1. 盃に乗って海を渡った僧侶:香港仏教、知られざる発祥の地
香港の精神史は、英国植民地時代よりも遥か昔、一人の神秘的な僧侶によって、この屯門の地から始まりました。その物語は、香港が単なる経済都市ではなく、深い文化的・宗教的ルーツを持つ場所であることを力強く示しています。
南北朝の劉宋時代(420年~479年)、一人の高僧が木製の盃に乗り、海を渡って屯門にやってきたという伝説が残されています。彼の名は「杯渡禪師」。その奇跡的な渡海の逸話から、人々は彼をそう呼びました。彼は屯門のある山に隠棲し、その山は後に彼の名にちなんで「杯渡山」と名付けられました。そして、彼が創建したとされるのが、現在の青山禪院です。香港三大古刹の一つに数えられるこの寺院こそ、香港仏教のまさに発祥の地なのです。この伝説は単なる民間伝承に留まらず、清朝の康熙・嘉慶年間に編纂された『新安県志』において、「杯渡仙蹤」が公式に「新安八景」の一つに数えられたことからも、その文化的影響力の大きさがうかがえます。
この物語の隠された宝石は、寺院の奥深くにあります。それは、杯渡禪師が生活し修行したと伝えられる洞窟、「杯渡岩(Pui To Rock)」です。しかし、ここに、我々は驚くべき文化的パラドックスを目の当たりにします。岩の傍らには、「高山第一」と刻まれた石碑があり、これは唐代を代表する儒学者で、仏教に対して批判的であったことで知られる韓愈の筆によるものと伝えられているのです。なぜ、仏教排斥の急先鋒であった人物の書が、香港仏教の聖地に存在するのでしょうか。ここに、帝国の辺境で、我々は文化の複雑な融合を目撃するのです。都とは異なり、この地では儒教と仏教が厳格に対立するのではなく、むしろ柔軟に共存し、影響を与え合っていたことを、この石碑は静かに物語っています。
屯門の精神的な起源を物語るこの地は、やがて帝国にとって物理的、そして軍事的な玄関口へと姿を変えていくことになります。

2. 帝国の南門:海上シルクロードの要塞と消えた市場
屯門の役割は、単なる港ではありませんでした。唐から宋の時代にかけて、ここは帝国の主要な貿易拠点であった広州へ向かう全ての外国船を管理する、軍事と商業の最前線ゲートでした。帝国はこの地を、外敵と富の両方に対する玄関口と見なしていたのです。
唐代、この地にはすでに軍隊が駐屯し、「海防戌卒」が置かれていました。これが「屯門(兵が屯する門)」という地名の由来です。珠江の河口に位置するその地理的条件は、海上シルクロードを行き交う船にとって不可欠な中継地となり、ペルシャやインドからの商船がここで補給を行いました。小欖や龍鼓灘で発見された唐代の窯跡や宋代の磁器は、ここが生産と貿易で賑わう一大拠点であったことを示す動かぬ証拠です。

この時代の隠された宝石は、歴史の連続性を物語る二つの場所にあります。一つは、外国船が停泊した歴史的な海岸線である「龍鼓灘の古代海岸線」。もう一つは、軍事拠点から商業中心地への変遷を辿る上で欠かせない、「屯門舊墟(旧市場)」の歴史的な場所です。市場自体は失われましたが、その跡地、近隣の天后廟、そしてさらに時代を遡る掃管笏遺跡で発見された漢代の五銖銭を結びつけることで、漢代の交易拠点から唐宋の帝国要塞、そして地域の商業中心地へと至る、二千年以上にわたる発展の軌跡を描き出すことができるのです。
その荒々しくも壮大な風景は、遠く都にいた文人・韓愈の想像力をも掻き立て、彼の筆から不朽の一節を生み出しました。
屯門雲雖高,亦映波濤沒
(屯門の雲は高くとも、逆巻く波濤に映りて沈む)
この詩は、当時の屯門が持つ、帝国の南門たる壮大で厳しい海の情景を鮮やかに切り取っています。帝国の南門を守る役割は、やがてこの地に根を下ろした氏族たちの手に委ねられていくことになります。

3. 青レンガの砦:名門の末裔、陶氏一族と700年の防衛史
中央の支配力が弱まると、辺境のコミュニティは自らの手で生き残りを図らねばなりませんでした。屯門に残る「圍村(城壁村)」は、この地に定住した氏族たちの驚くべき生存戦略と、洗練された防衛技術の物理的な証です。
老圍のような村は、厚い壁、極端に小さな窓、四隅に設けられた見張り櫓(炮樓)、そして籠城に備えた井戸など、徹底した防衛思想に基づいて設計されています。これらの建築は、清代に激化した「土客械鬥(本地人と客家人の武力衝突)」の産物であり、コミュニティの自己防衛と強い結束力の象徴です。老圍の入口に掲げられた「門高迎紫氣圍老得淳風」(高き門は吉兆を迎え、古き囲いは純朴な風習を守る)という対聯は、彼らが単なる要塞ではなく、誇り高き文化の貯蔵庫であったことを示しています。
しかし、この物語の真の隠された宝石は、村の城壁の内に秘められた、ある氏族の驚くほど高貴な血筋にあります。「屯子圍(Tuen Tsz Wai)」に居を構える陶氏一族の祖先を祀る「定山祖祠」には、次のような対聯が掲げられているのです。
八州世澤,五柳家聲
(八州都督の伝統を受け継ぎ、五柳先生の名声を家風とする)
この対聯が意味するものは、実に深遠です。それは、屯門の陶氏が、東晋の名将軍であった陶侃(八つの州の都督を歴任)と、中国文学史上最も有名な詩人の一人である陶淵明(号は五柳先生)の直系の子孫であることを高らかに宣言しているのです。この発見は、圍村の物語を単なる地方の防衛史から、帝国の最辺境において、武勇と文学という士大夫の最高理想(耕讀傳家)を守り抜いた一族の壮大な叙事詩へと昇華させます。
地域紛争から自らを守るための砦は、やがて国家を揺るがす革命に参加するための拠点へと、その役割を変えていきます。

4. 夕陽の裏に潜む革命の烽火:孫文を支えた秘密基地
20世紀の幕開けと共に、香港の片隅にあった屯門は、中国近代史を大きく変えた辛亥革命において、密やかでありながら決定的に重要な役割を担うことになります。この地は、旧体制を打倒するための秘密の最前線でした。
孫文の熱心な支持者であった富豪、李紀堂は、屯門に「青山農場」を設立しました。表向きは農場でしたが、その実態は武器を貯蔵し、革命家を訓練するための秘密基地でした。広州での蜂起が失敗に終わると、もう一人の革命家、鄧蔭南は、さらに安全な拠点として、人里離れた下白泥に第二の基地を建設します。
この物語の隠された宝石が、その時に築かれた「下白泥碉堡(Ha Pak Nai Pillbox)」です。現在では法定古蹟に指定されているこのレンガ造りの要塞は、銃眼が設けられ、周囲の干潟とジャングルに守られた完璧な隠れ家でした。后海湾に面したその戦略的な立地は、革命家たちにとって理想的な潜伏場所であり、万が一の際の脱出路ともなりました。興味深いことに、この近代的な要塞は、地域の伝統的な信仰の中心である天后廟のすぐ近くに建てられました。革命家たちが、古くからの村落社会の構造に巧みに溶け込み、その庇護の下で活動していた歴史的風景が目に浮かびます。
静かな夕陽が照らすこの煉瓦の砦で目を閉じれば、今もなお、革命家たちの密やかな息遣いと、時代の変革を渇望する熱い魂の響きが聞こえてくるようです。かつて武器が隠され、革命の陰謀が渦巻いていたこの場所は、今や香港で最も美しい夕陽の名所として知られています。この劇的な対比こそが、下白泥の持つ抗いがたい魅力なのです。
清朝を打倒するための戦いは、数十年後、外国からの侵略者に対する抵抗の戦いへと引き継がれていきます。

5. 英雄たちの入り江:第二次世界大戦、忘れられた抵抗の最前線
香港の第二次世界大戦史は、しばしば受動的な植民地の物語として語られがちです。しかし、この最後の物語は、屯門の地元村民が、日本占領軍に対して武装抵抗を続けた積極的な主体であったことを明らかにし、その歴史観に異議を唱えます。
かつて海上シルクロードの玄関口であった龍鼓灘は、20世紀には抗日ゲリラ部隊「港九大隊」の主要な活動拠点となりました。この地は、新界西部における抵抗の最前線だったのです。多くの村民がこの抵抗運動に協力し、あるいは自ら参加しました。その中には、戦闘で命を落とし、港九大隊の公式な烈士115名の一人として記録されている劉發仔のような人物もいました。
この物語における最後の隠された宝石は、龍鼓灘の丘の上に建てられた「瞭望台と抗日紀念碑」です。この場所から、訪問者はゲリラ部隊が作戦を展開した海岸線と海域を一望することができます。眼下に広がる風景は、現在の穏やかな姿と、かつての英雄的な過去とを力強く結びつけ、歴史への深い思索を促します。
ここに、我々は力強い歴史の反響(エコー)を聴き取ることができます。20世紀の抵抗の最前線であった龍鼓灘は、奇しくも唐・宋時代に帝国の海防要塞が置かれた場所でもありました。これは、屯門が古代から現代に至るまで、常にこの地域を守るための「門」としての役割を果たしてきた、歴史の連続性を明確に示しています。

ゲートの再考
盃に乗った僧侶の伝説から始まり、帝国の南門、氏族の砦、革命の秘密基地、そして抗日の最前線へ。屯門の5つの物語は、この地が歴史を通じて常に何らかの「門」であったことを教えてくれます。それは精神世界への門であり、国家防衛の門、一族存続の門、そして自由を求める革命の門でした。
屯門の豊かで多層的な歴史は、一つの場所のアイデンティティが決して固定されたものではなく、その真の姿を理解するためには、現代的な表面の奥深くを見つめなければならないことを証明しています。
あなたの知っている街にも、まだ語られていない「始まりの門」が隠されているのではないでしょうか?
参考文献:
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青山寺位於屯門,又名青山禪院,是香港三大古寺之一,據考證應為香港佛教發源 - EdUHK, accessed October 25, 2025
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附件A 歷史建築評估位於新界元朗下白泥55 號的碉堡位於元朗下白, accessed October 25, 2025
